こんにちは 

2月最後の日曜日になって、
ようやく記事の更新です 

といっても、
ソフトテニス関連の話題はなく、
個人的なお話しですが、
どうかご容赦を 

先月の末頃から、
都内のとある施設に
お世話になっていました。

そして、これ 
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その施設の中から撮した写真です。
引き出し線が見えにくくて
申し訳ありません。

実は、窓の外には40年ほど前に
(当初の記事では30年になっていました)
私が通っていた高校が見えます 
手前の建物は、赤羽小学校です。

猫の額のような小さな校庭に
部室棟、体育館、そして校舎。
お~っ、懐かしいなぁ。

母校の名前は
「都立 三田高等学校」

現住所は千葉県富里市ですが、
紆余曲折があって、
母の実家(芝神明)から近い、
この高校にお世話になっていました。

一通りの運動部はありますけど、
特徴的なのは、高校スポーツの花形、
野球部がありません 

というか、野球は禁止されていて、
生徒手帳にも記載されていましたっけ。
猫の額の校庭ですから
仕方ないですね。

でも、サッカー部やラグビー部、
アメリカンフットボール部はあって、
多摩川河川敷の別のグランドでもって
練習していたと記憶しています。
ラグビーは違ったかな。

テニスは軟式も硬式もあって、
男子軟式テニスは部員が少なく、
1つ上の先輩は、お1人だけ。
同期も私を入れて3人。

先輩が抜けたあとに
後輩が1人入って、また4人。
なので、団体戦の経験は
殆どありません 

ちなみに、中学では部員が多すぎて、
レギュラーは個人戦のみ出場の決まりで、
ぎりぎり3番手だった私は
個人戦だけだったので、
中学校でも団体戦の経験は
ありませんでした 

女子は、それなりにいましたけど、
それでも7~8人だったかな。

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2段に分かれている校舎は6階建てで、
高い方が音楽室とか理科室といった
実習室が集まっていて
低い方が教室のある建物で、
手前の背の低い建物は
温水プールです。

学校は、こちら側だけ道路に面し、
この坂は「綱の手引き坂」といい、
馬の手綱でも引いたのかと思いきや、
平安時代の武士「渡辺 綱」に
由来してるそうです。

都内には、こういった
「名付けられた坂」がやたら多くて、
場所や道順なんかは、
坂の名前で伝えた方が
わかりやすい事もあります。

ちなみに、この坂を100m少し登ると、
そこから先は下り坂になりますが、
その坂は「日向坂」と名付けられ、
「二之橋」を渡って
交差点を直進で抜けて麻布へ入り、
有栖川公園辺りまでの
だらだらと長い登り坂は、
「仙台坂」と呼ばれています。

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地下1階に見えるところが1階で、
写真の左側のレンガ畳が正門ですが
正門を入ると2階に入ります。

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こちらが正門です。
ここに来たのも30年以上、
35年は経っているかも知れません。

色々な思い出がありますけど、
文化祭は『白珠際』(はくじゅさい)と
呼ばれていました。今でもそうかな?

今も刎頸の友の1人が
その『白珠際』の実行委員長で、
前日の午後6時~8時に開催される
全校生徒が集まる「前夜祭」の司会を
仰せつかった私は、友人と2人で
壇上で大暴れしていました 

さて、ここまで来たので
もう少し足を伸ばして・・・・

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やっぱり、三角形なんだ。

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懐かしい香りが
鼻腔を突いた瞬間、
あの味が口の中いっぱいに
拡がっていました 

今では、全国的に有名になった
「ラーメン二郎」の本店です。

ちょうどお昼時でしたので、
ずらりと並んでいましたけど、
お昼時じゃなくても
並ぶのは当たり前 

私が足繁く通わせて頂いた頃は、
慶應義塾の学生が多かったので、
夏休み時期の暑い日だと
スンナリ入れる事もありました。

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そのラーメン二郎から、
慶應義塾の正門前を抜けて
国道1号の突き当たりにあるのが
写真の慶応仲通り商店街で、
ここを抜けていくと
JR田町駅の目の前に出ます。

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慶応仲通り商店街側から振り返った写真。
国道1号線は、写真の左奥から右奥へと
直角に曲がる方向が上り(日本橋)です。

実は、私が40年前に通っていた
「ラーメン二郎」は、
この交差点の角、
この写真で言うと、
中央の白い建物の辺りにありました。

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うーん、記憶ではお店の前は、
こんなに広くなかった筈で、
歩道に植えられた樹木の辺りが
お店の鼻面だったような気がします。

開店前から待っていると、
10時前にオヤジがカブの荷台に
麺を入れた木箱を積んで来てお店に入り、
少ししておばちゃんがスクーターで来て、
例の香りが漂ってきたら開店 

自家製麺が切れる3時頃まで
17席(だったと思う)の座席が
1席だって空くことは滅多にありません。

当時、お店の2階は「清風(せいふう)」
という雀荘で、
そこのご主人が最初の分家ですが、
今では、若いお弟子さん達が
あちこちに「二郎○○店」を出店させ、
多くのお客さんが、
あの味を楽しまれているようです。

ちなみに、お店の隣はパン屋さんで、
その日、最後の客だった筈の私に
数が合わずにラーメンが出なかった時、
おばちゃんが「お腹すいてるでしょう」と
お隣でパンを買ってきてくれて、
ラーメン二郎の店内で
パンを食べさせて頂いた記憶が
鮮やかに蘇ります 

いや~、すっかり身の上話しになって
ソフトテニスに関する話題がなくて
誠に申し訳ありません 

当時の二郎から高校までの国道沿いには、
木造の古い建物もけっこうありましたが、
今ではビルが建ち並んでいました。

でも、午後5時になると防災無線でもって
「夕焼け小焼け」が流れるのは
40年経った今でも変わっていませんでした。

これ、最後の2小節だけ
なぜか「かごめかごめ」の
「後ろの正面だ~れ」のフレーズ。
なんでなんだろう???
ま、いっか 

君が生まれて育った街 東京
 もうそれだけで好きな街だった』

(東京/さだまさし)

次回からは、ソフトテニス関連の記事を
アップしていきたいと思います。

では、また~